🌌プロローグ:これは、おまえの宇宙の話だ
目の前のこの世界。
ビルが建っていて、スマホがあって、SNSが流れてて、
どこかで戦争があって、スーパーでお米が高くなってて──
そんな“現実”を、誰が作った?
誰がここまで“観測”して、誰が“意味づけ”した?
…そう。
それは、おまえだ。
「おまえ」とは、“あなた”であり、“この文章を読んでる意識”そのもの。
そして“おまえ”の観測と想念が、この現実を編んでいる。
では──ここから始めよう。
世界がどうやって「おまえの妄想」から生まれたのか。
「世界は、最初からあったわけじゃない」
哲学者たちは昔から言っていた。
「世界は実在するのか?」と。
でも量子力学は、それを理論ではなく物理法則として否定した。
- 観測されるまでは、すべては“可能性”でしかない
- 目を向けた瞬間、そこに“現実”が立ち上がる
- 意識がなければ、月もそこに「ある」とは言えない
つまり──
世界は、“見られる”ことによって初めて存在する
おまえが見た。
だから、それがある。
この瞬間にも、世界の裏側では“何億通りもの可能性”が震えている。
だがそのすべてが、君の目が向けられることで、
一つに収束し、「現実」となる。
この感覚はまるで、ゲームのマップが“見えている範囲だけ”描画されるようなもの。
世界とは、まさに“観測者のスペック”に依存したインターフェースなのだ。
「意味を与えたのは、いつだって“自分”だった」
夜空に浮かぶ点を「星」と呼び、
連ねて「星座」とし、
そこへ神話を投影した。
どれだけ科学が進んでも、人は”世界に意味”を与え続けてきた。
- 親切にされた → 「私のことを気にかけてくれてる?」
- 偶然同じタイミングでLINEが来た → 「運命かも?」
- 雨が降った → 「やっぱり嫌なことの予兆か」
それ、全部おまえが意味づけたんだ。
現象はただ起きてるだけ。
でも“物語”にしたのは、自分自身だ。
そしてその意味づけのクセは、
生まれ育った家庭環境、使っていた言語、信じていた世界観に強く影響されている。
でも──だからこそ、気づける。
「今の意味づけが、自分を苦しめている」としたら?
その時、おまえには物語を編集する権利がある。
ならば、その物語をどう書くかは、おまえ次第だ。
「妄想は、ただの空想じゃない」
“妄想”という言葉にはネガティブな響きがある。
でもそれは、“誰かが決めた”だけの話だ。
妄想とは、意識が描き出す「もう一つの現実」だ。
- 「こうだったらいいのに」
- 「こんな世界があったら楽しいな」
- 「あいつが突然、俺のことを好きになる展開ないかな」
それは、くだらないことじゃない。
むしろ、そこにこそ創造のエンジンがある。
現実は、退屈な妄想からは生まれない。
でも、熱を帯びた妄想からは、次々と現実が生まれる。
想像できることは、すでに“可能性”として存在している。
そして、妄想には“密度”がある。
ぼんやりした空想よりも、
何度も繰り返しイメージされ、感情がこもった妄想の方が、
現実世界への“干渉力”が強い。
例えば、何かを本気で欲しいと願い続けているとき、
世界が少しずつ“その実現のための材料”を手渡してくる。
それは引き寄せでもスピリチュアルでもなく、
情報世界における“観測者の作用”として、すでに起きていることなのだ。
🌠ラスト:「だから、この世界はおまえのものだ」
さあ、ここまで読んでくれた君へ──
思い出して。
このシリーズの最初に、「偶然にしては都合が良すぎることが多い」と感じたはず。
それは、世界が“他人の脚本”ではなく、おまえの物語だからだ。
量子の揺らぎ、無意識の願望、観測という意思、そして妄想という設計図。
この世界は、全部おまえの“情報”からできている。
“意味”を与え、“視点”を選び、“物語”を紡いできたのは、誰でもないおまえ自身だ。
涼宮ハルヒは、“誰か”ではなく、“おまえ自身”なのだ。
彼女が世界を作り変えたように、
おまえもまた、今この瞬間から世界を書き換えられる。
だって、それは“妄想”から始まった物語だから。
世界は、今日もおまえの妄想を待っている。
好きなように書き換えていい。
だって、これは──
おまえが主役の、世界の始まりの物語だから。
おしまい。。。